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「忘れないで」ということ 鳥の劇場公演”わが町”

鳥取県には鹿野という古い町があります。
昔は城があり、宿場町があり、今は閑静な町ですが、人の行き来の名残がある所です。
その鹿野町の廃校を劇場として作り直し、活動されているのが「鳥の劇場」です。
http://www.birdtheatre.org/

6月末に「鳥の劇場」の新作「わが町」を観にいきました。
数年ぶりの鳥の劇場でしたが、元学校校舎のためか、雨の日でも太陽光が豊かに感じられる場所です。
ホワイエから観客席に入れば、舞台照明がなければ暗黒の世界。
小劇場だからこ舞台の異次元を感じます。

「わが町」の作家はアメリカの代表的な劇作家のソートン・ワイルダー氏です。
ピュリッツァー賞の受賞作家さんで、今回鑑賞した「わが町」も対象作品であります。


時代は19世紀から移ったばかり。自動車もまだ道を走っていない時代で、舞台はアメリカ東部の小さい町「グローバーズ・コナーズ」。新聞は週二回の配達で、隣にポーランド人町とカナダ人町があり、丘の上には墓地がある。
人口2000を少々上回る程度、住民のほとんどが中流下層階級で、文化・芸術に興味を持つ人は10パーセントもいない。

そんな素朴で平凡な町の全貌が、役者さんの演じる「舞台監督」や「教授」「新聞の編集長」 によって学校の講義のように語られていきます。
細やかに設定されていますが、グローバーズ・コナーズは本当のアメリカにはない架空の町です。この戯曲が書かれたのは1938年ですから、少々昔の時代の話でもあります。


幾つかお芝居内の台詞を書かせて頂きますが、メモを取らず記憶任せですので、転記誤りもあるかもしれません。その時はご容赦を。ご指摘もいただけたら幸いです。


戯曲の中心は2つの家族にあります。
田舎医師のギブズ氏一家と、新聞編集長ウェブ氏の一家。
それぞれ男女2人ずつの子供がいて、主婦が庭に植える植物が多少異なる程度で、暮らしぶりもほとんど同じ。ギブズ家の息子ジョージと、ウェブ家の娘エミリーがやがて結婚して孫も生まれる位に親しい。


主婦の朝の忙しさ、兄弟げんか、温かく見守る父。初恋。
一幕から二幕はほのぼのとしたホームドラマが続きます。
母の仕事を手伝わない息子を「母さんは家の使用人ではない」と穏やかに諭す父親など、どの時代のどの家族のなかにもありそうな場面です。
町のほとんどの人が、疑いもせずに、一つの場所で生を終えていく時代の話ですが
「南北戦争の時、アメリカの為に戦う若者たちは80km先から出ることはなかった」
そんな言葉が「舞台監督」によって時折差し込まれます。
「舞台監督」は神の視点ですよね。


とてもとても平凡な、善き人々たちのドラマですが、役者さんの実感のある演技に、彼らの生活を高い位置から見つめる視線の存在に、巧みな演出とに、時間を忘れて引き込まれてしまいました。


特に村上里美さんのギブス夫人、中村きくえさんのウェブ夫人は、長年生活を支えていた主婦の強さ、感受性を表現されていて演技で素晴らしかったです。
一緒に見た友人談「最初はお母さんが主役かと思った」。確かにんな気がします。
ギブス夫人の「箪笥を売って、違う言葉を話す人々のいる場所に旅したい」というささやかな夢が愛おしかったです。


エミリー役の葛岡由衣さんも、ナイーブで生真面目な少女をうまく表現されていました。
第1幕、2幕と一歩引いた受けの演技が多かったのですが、彼女が一人で語り、時代を超える第3幕で一気に光を増していました。



3幕で内容は一気に変わります。
9年後の「グローバーズ・コナーズ」の丘の上の墓地にて。エミリーの葬儀中に死者たちが語ります。墓石の配置は椅子に変えており、死者達はその椅子に座っています。
今よりもはるかに死が近い時代で、お産による死も少なくはなかったでしょうね。

親しい人が生まれたり死んだり、新しく加わったりするときに生じる思いは、喜怒哀楽のほかにも、自分の属する世界の変化の実感もあるのではないでしょうか。
私が祖父を亡くした時、ただ今までいた世界の構成が変わったという不安や欠落感もとても大きかったです。



人には世界が2つあります。
一つは実際に暮らす、半径50メートルの世界、もう一つは暮らしていない外の世界。
他人の人生やインターネット、またはその人の理想の中にある世界。
最初、人は暮らしの中に見える世界しか見えなかったけれど、最近はインターネットなどの情報網の発達で外の世界も細やかに広大になってきました。


だけれど、「わが町」ではもう一つの世界を観客に見せていました。
死者だからこそ見える、人々が生きる世界です。
「わが町」の死者達はゆっくりと記憶を失って、やさしく穏やかな存在です(自殺した人は強い思いが続くようです)彼らにとって生きる者達はただ毎日を過ごすのに忙しく、見えるものが見えていない。
忙しなさから解き放たれた死者達は、少しずつ少しずつ、自我を忘れていく。
死者になったばかりのものはそれに戸惑います。


エミリーが望んだ「生涯で一番幸せだった時間」の忙しさ、人間たちがそれぞれ働き、愛し、生きることに一生懸命で、「目の前のものが見えてない」ということに気付いた悲しみ。
そして、そこに生きていながら気付けるのは、ごく僅かな聖者か詩人しかいないこと。


私はどちからというと、周りに恵まれた分頼りがちで、生活とか性格に深い意味を与えたがってしまう人間です。が、うまく言えないのですが、移り変わる時間の完全無欠さとか、ジクゾーパズルのように、抜けた所にはめ込まれていく人間の生と死の繰り返しとか、目の当りにしてしまい、怖い作品だ、と感じました。


明るい朝から賑やかな昼、すべてが静かに眠り込む深夜までと時間を追うような雰囲気。
ユーモアも差し込まれて、さらっと乾いていて、見やすいです。
日本ではこういう話は浪花節か斜に構えた話か、家庭礼賛のとても狭い空間の中の話になりそうです。


キリスト教の文化は、生を「贈られたもの」という意識があり、日本だと「日々の繰り返し」的な感覚があるのかも。日々の繰り返しだから、余分な意味や教訓を与えようとするのかもしれないと思いました。


3幕の間に、キラッと光る言葉がいくつかありました。
「死者でないと、生きる意味はわからない」
スピリチュアル方面では「皆何かの目的があって生まれてきたのだ」という信念もありまが、人は生きる瞬間ごと、仕様も目的も変わっていくものの気がします。死ぬ直前になるまで、目的を果たせるかどうか図るのもできず、全体図位しか描けないのかもしれません。その時にはなるべく満足できる形で図をかけたらいいなと思ってはいるのですが、その時はその時を過ごすのに夢中なのかもしれませんね。

「この星だけが、少しでもよいものになろうと力んでいる」
よいものとは何だろう、と思います。
想像するしかないのですが、この戯曲の中で、死者たちが意思を残し続けていることにつながっている気がします。今のところ、地球しか生命はありません。

何よりも、チラシにも描かれていたエミリーの言葉はとても美しく、光を含んだものでした。作品3幕を通して語られているものが、この言葉に納められている気がします。


できたらまた再見したいお芝居でした。
ほかのカンパニーだと、どんな表現をされるのだろう?と興味があります。
鑑賞できてよかったです。
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プロフィール

高砂 舟

Author:高砂 舟
twitterもやっています。
@takasago_fune

偏った本読みと太極拳が趣味です。低レベルですが腐です。
今はグレアム・グリーン継続中。星野道夫さん、宮澤賢治氏、藤沢周平氏をよく読んでいます。
植田正治氏の写真も大好物。

大人計画とグループ魂とっかかり中です。

宝塚は長く観ています。観劇回数は少なくとも、おばあさんになるまで細く長く見ていきたい所存。

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